ティーブレークコーナーを開設しました。熱ーい紅茶をティーカップからソーサーに注いで飲むのが18 世紀の正しいマナーだったそうです。





50年前のアフガニスタン  バーミアン気まま旅:残念ながらその後タリバンにより 破壊されてしまいました。



カブールからバーミアンへ
荒涼としたヒンズークシ山脈に1条の小川が流れ、その谷あいに沿ってバーミアンへの道が はしっています。小川の両岸にだけ緑があり、せいぜい幹の太さが10センチ程度の潅木が、日干し煉瓦で 造った簡素な家々の陸屋根を葺くのに使われているようです。
お金持ちはカブールから飛行機ですが、 現地の安宿で知り合ったフランス人旅行者2人と私の3人でアフガン風に改造したジープ(手前)を チャーターしてこの非舗装道路を行くと突然路肩が出水で流されたと交通止めに。 小川の上流からひいた灌漑用の水路からあふれた水が犯人のようでした。




街道沿いの茶店=チャイ
飲み物はレモンティー、カップアンドソーサーでカップの紅茶をソーサーに注いで、それを すするという珍しい光景を目撃する。これはカップに耳が付く以前はカップを持つ手が熱いので? ソーサーに注いで飲むという、かつて英国での正統の作法にのっとった飲み方という事を後々 知りました。辺境の地に過去の文化が残る例は多い。例えば中国に雅楽の楽器は残されているが、 生きた音楽としては忘れ去られてしまったそうである。それが辺境の地である日本に『雅楽』として 残っているのに似ているのか。→文末付録『カップアンドソーサーの起源』参照
ちなみに当然トイレはない→この表現は妥当ではなく、街中どこでもトイレといった方が正確か。 現地の人はスカート風の腰巻ですから、考える人風にジットしている人はアヤシイ(笑)




バーミアンの街の背後に石窟群を遠望する。背後はヒンズークシ山脈
左は"大"石仏=52m、右は"小"石仏→実は"中"石仏=36m。目を凝らして見ると中央部で潅木が少し 高くなったところに"小"石仏が見つけられましたでしょうか?
昭和51年のの平和な頃のアフガニスタン。もちろん地雷の心配はありませんでした。 その後、ソ連の侵攻、その後タリバンの制圧など波乱の時代が続きました。 さらにヒンズークシ山脈をさかのぼると美しい湖があるといいます。 →基本的に私の旅は綺麗な風景を みるためのものではないので当然パスという事になりました。 帰りは確か路線バスで帰ったと記憶しています。




当時も外国の支援で修復の作業が続けられていました。→修復のための足場が見える。




頭部詳細。かつて異教徒により顔を削ぎ落とされた。




ボールトドームの白く見える部分には仏画が残る。 左右に飛行機の窓のように開口部が見えますが、




この小窓にはトンネル状の狭い階段があって、下から登ることができる。




狭い階段を上ヘ上へと登って行くと↓




ボールトドームにたどりつき、くらくらするほどの高さから バーミアンの街が一望できます。堅固なコンクリートではなく、 自然の岩ですから、風化でいつ崩壊するかと考えると足もとが ふらつきます。




仏画1




仏画2




大小2体の仏像が有名ですが、実はもう一体の小石仏が 掘られていましたので"中"石仏としました バーミアン"中"石仏の近景/Middle Buddah 36 m
日本の観光地と違い観光客は私1人。
こういうところで昼寝をして、いにしえの夢を見るぜいたく。




頭部のドーム形状が異なる。仏画はこちらの方がはっきりと残っている。




頭部のドーム形状が異なる。仏画はこちらの方がはっきりと残っている。




頭部詳細。かつて異教徒により顔を削ぎ落とされた。




ボールトドームの白く見える部分には仏画が残る。ここまで簡単に階段で登ることができる。 手すりもない吹きさらしのせり出した岩に腰掛けるスリル。何百年もくずれなかったのだから 多分大丈夫でしょうが、万一・・




"中"石仏で36mの高さという。




仏画3




仏画4




削ぎ落とされた顔部の詳細




足元の近景。 下地が見え、表面を修復している事がわかります。




大小2体の仏像が有名ですが、実はもう一体の小石仏が 掘られていました。残念ながらすでに仏像自体はなくなっています。バーミアン"小"石仏跡の近景1




バーミアン"小"石仏跡の近景2




修行のための洞窟か。それとも旅の僧の宿か。こういうところで昼寝をして、いにしえの夢を見るぜいたく。




おまけ:近所にあった墓地




記念撮影/30年以上前の私




付録『紅茶碗は「カップ・アンド・ソーサー」という。なぜ「アンド・ソーサー」なのか?』



 紅茶は西洋文化の美しい歴史を背負って現在まで存在している。ホテルのロビーで外人のボーイさん(キムタクでも可)にかしずかれ、ウェッジウッドのティーセットで優雅なアフタヌーンティーと洒落込みたいものである。  しかし、紅茶は元をただせば、緑茶、ひいては薬であったのだ。そしてルーツはインドでもスリランカでもなく中国であり、四千年の歴史の中にお茶もちゃんと入っているのであっだ。  

「私の紅茶物語」でも書いた様に、紅茶、緑茶、烏龍茶等の中国茶は皆同じ茶の木からでき、その発酵させ具合によって違うのである。発酵させないと緑茶、中間(半発酵)に烏龍茶、完全に発酵させると紅茶になる。  

お茶の歴史は中国の伝説に拠ると、昔、時の皇帝神農氏が木陰で白湯を飲んでいたら風で葉っぱが湯の中に入り、素晴らしい香りと味になったので、それ以来葉っぱ入りのお湯を愛飲するようになった。そして、その葉っぱこそお茶の葉だったという話がある。ずいぶん昔から不老長寿の薬として飲まれていたそうである。日本にお茶が入ってきた頃も、貴重故に薬として扱われていたそうだし、現在でもお茶に含まれるタンニンが口臭を消すのに効くとか、ガン予防に効くとか、ビタミンCがお肌にいいとか、その効能は様々である。私に言わせれば、気持ちを落ち着かせ、ケーキもついてくれば、幸せにしてくれるというメンタルな事も加えていきたいくらいだ。  

実際に中国の中でも雲南省辺りが原産地らしい。まず緑茶が飲まれ、だんだん発酵という工程が加えられるようになった。宋代には紅茶の原形ともいえる発酵茶が生まれたようである。シルクロードを使っての貿易も盛んで、また日本には遣唐使を通じて伝わり、鎌倉時代に種子が輸入されたようである。  

現代こんなに飲まれているコーヒー、紅茶は西洋独自のものではない。まずイスラム文化との交流でコーヒー文化が先に入ってきた。17世紀のことである。脳をノンアルコールで知的に興奮させてくれるコーヒーは、コーヒーハウスという文化空間を世に生み出した。そこから生まれたのは芸術家、思想家等の著名人から、ロイズという保険屋まで多種多彩である。コーヒーハウスにいけば何かしらの情報が入る。また何も飲まなくても入場料さえ払えばよいという場所だったそうである。しかし、コーヒーハウスは女人禁制で男達だけの社交場であった。  

東への進出を狙ったポルトガルの宣教師によって中国のお茶は西洋に紹介されたという説もあるが、公式な記録ではお茶を西洋に伝えたのはオランダの東インド会社で1610年の事である。この大航海時代の各国の力関係が私には難しくてよくわからないが、要するに他国には負けたくないという意地がすべての事を支配していた様に感じる。まず、中国との貿易に独占的な立場にあったオランダの東インド会社が緑茶を伝えた。(英国は出遅れたのでインドとの貿易に重点を置いていた) しかし、外国にお金が流れるのを嫌うイギリスやフランスにとってオランダ経由のお茶は貴重品であり、なんとか自国で調達したいところへ、英蘭戦争がおこり英国が勝利した。これにより、中国から直接お茶が輸入できるようになったが、英国が東インド会社を置いたのは、福建省廈門であり、廈門のお茶は半発酵の武夷茶(ボヘア茶)であった。これは英国で圧倒的に多く出回り、ブラックティーと呼ばれていた。  

19世紀になると、英国の冒険家ブルースがインドのアッサムで自生の茶樹を発見し、中国茶とは別の品種である事が確認された。1823年の事である。さらに、1845年にはグリーンティーとブラックティーは製法が違うだけであるのがわかり、中国種とアッサム種の交配が進み、英国の植民地インドやスリランカで栽培され、現在の紅茶に至るという訳である。

飲茶の風習は、飲茶において先進国のポルトガルからキャサリン王妃がチャールズ2世に嫁いできた際の持参金として居留地ボンベイ、砂糖、そして紅茶にまつわる陶磁器や飲むための作法を持ってきた。それが上流階級から広がり、贅沢な風習であった。飲茶が廈門産のお茶が直輸入されて家庭に普及するようになり、コーヒーハウスから締め出しを食らっていた家庭の女性達により英国に根付いたのであった。それには18世紀のはじめ、アン女王が毎朝お茶を飲むのを真似て女性達の間で大流行したなど、色々な事はあったらしい。  

さて飲み方であるが、最初は磁器も中国から輸入されていたものだから、把手のない小さい丸いお碗だった。中華料理屋で烏龍茶を飲むアレである。しかし、把手付きのコップで酒を飲んでいた欧州人の中で自然と把手はついていったのだった。しかし、それは18世紀になり欧州人が、自分たちで磁器が作れるようになってからの話である。  

そして受皿。コーヒー碗はカップと皿で1つだが、紅茶碗は「カップ・アンド・ソーサー」という。なぜ「アンド・ソーサー」なのか?それは、それまで個々にあったものがお茶という文化到来の際、一つになったからである。カフェ・オ・レ・ボウルが深鉢として今日もあるからわかるようにそれまでの欧州でミルクやサイダーの飲み物はティーボウルで飲まれた。深鉢の事であるそして、お茶は前述の通り、小さな碗で飲むものである。欧州人はどうしたか。  

18世紀の飲み方はなんと、カップから受皿にお茶を移し、そこから紅茶の香りを味わい、その家の女主人の煎れ方を誉めるのがマナーだったのである。そして中にはカップと受皿の間を何度も移し替える人がいた。それは猫舌の人(であろう)が茶を冷ますために行った事で、ミルクを入れる目的の一つに温度の調節があるのと同じ事である。だから、当初の受け皿は今より深かった。今でもロイヤル・アルバートのローズシリーズやウェッジウッドのシリーズで深さのあるソーサーはデザインとしてあるが、私はスプーンが置きづらいと思っていた。ちなみにこの作法(そう、これは作法なのである)は19世紀にはやっぱり下品という事になりすたれていったそうだ。当たり前である。私の中で何かが壊れた。  

そう、しかし、19世紀半ばになるとベドフォード公爵夫人によって昼食と遅い夕食の中間にアフタヌーンティーを設ける習慣が始まる。紅茶の国イギリス。スコーンの国イギリス、優雅なアフタヌーンティーの国イギリスの始まりである。

出典『http://homepage3.nifty.com/min/fec/12/f1203.htm』


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Last Update 2009/01/20